@article{oai:takushoku-u.repo.nii.ac.jp:00000605, author = {澤田, 次郎 and Sawada, Jiro}, journal = {拓殖大学論集. 人文・自然・人間科学研究, The journal of humanities and sciences}, month = {Oct}, note = {本稿は明治後期に陸軍の情報活動、インテリジェンスの中核を担った福島安正が、明治初年の青少年期、どのような足跡を示し、いかなる思想形成過程をたどったかを検証するものである。結論として以下の諸点を指摘することができる。 第一に、幕末の松本藩時代から新式の軍事教練などを通じて西洋化の波を受け始めていた福島は、明治維新直後、開成学校、大学南校で英学を学んだ。学資が続かず大学南校は退学したが、その後、私塾の北門社を経て、蘭疇社のズィッヒェル、林邸居住の漢学者・巌田正義、江藤新平邸のピン氏、耐恒学社のホワイト、個人教師の鈴木唯一、成功社といった形で学校と教師を転々としながら勉学、とくに英学に励んだ。 第二に、そうした過程で福島は西洋人と直に接し、彼らとコミュニケーションをとるという経験を積んだ。それとともに日本の西洋化、「文明開化」を歓迎し、その進展を願う彼は、たとえば陸軍省文官時代、マッカーマント大尉を案内した際に見られたように、イギリスについては文明国としてポジティブなイメージを抱いていた。 第三に、司法省文官となった福島に大きな衝撃を与えたのは、一八七四(明治七)年の台湾出兵であった。このとき清国との戦争を予想した彼は強い危機感を覚え、愛国心を燃やし、それが契機となって陸軍省文官、さらに武官へと転身していくことになる。 第四に、陸軍文官時代、フィラデルフィア万博に派遣され、さらに西南戦争に征討総督本営付の書記として参加した福島は、戦場から送られる情報を取り扱う任務につき、これが彼の軍事情報活動の出発点となった。 第五に、以上の過程で福島の中で形成された根本的な価値観は、刻苦勉励して身を立て、家名を揚げ、さらに「皇威ヲ海外萬国ニ輝カサン」というものであった。自己の立身出世と日本の国権拡大、対外発展は彼においては矛盾せず、相補い合うものにほかならなかった。 以上の五点に見られる若き日に培われた福島の特徴は、その後、陸軍で情報活動を続ける上でつねに彼の思想の根底にあり、その言動の基盤として作用することになるのである。}, pages = {1--27}, title = {青少年期の福島安正と情報活動の起源}, volume = {48}, year = {2022}, yomi = {サワダ, ジロウ} }