@article{oai:takushoku-u.repo.nii.ac.jp:00000642, author = {平崎, 真右 and Hirasaki, Shinsuke}, journal = {拓殖大学国際日本文化研究, Journal of the Research Institute for Global Japanese Studies}, month = {Mar}, note = {戦前期の日本では、道教を哲学と宗教に分けて捉える視点が明治一〇年代より認められ、それらを前史に、宗教としての道教のうち「一般民衆の生活のなかの道教」という論点が示される。その自覚的な発言者を「支那学者」にみれば早くは狩野直喜(一八六八―一九四七)を、あるいは「通俗道德」という論点では服部宇之吉(一八六七―一九三九)があげられるが、これらの論点は彼らの弟子をはじめとする帝大系支那学者たちの関心からは後退していく。一方で、 外地では橘樸 (一八八一―一九四五)や中野江漢(一八八九―一九五〇)らが狩野らの論点を「通俗道敎」と呼び探究したが、内地で同様の任を果たしていた人物こそが宮原民平(一八八四―一九四四)であった。宮原は母校・拓殖大学で教鞭を執った、元曲を中心とする白話文学研究者として著名だが、従来の支那学および中国学研究史のなかで語られることは少ない。そこで本稿では、宮原における学術および中国認識の特徴を考えるうえでとくに道教に関する言説をとりあげ、橘樸のほか、青木正児(一八八七―一九六四)や塩谷温(一八七八―一九六二)ら、宮原と同じく白話文学研究を専門とした同時代人たちとも対照しながら、道教を語る白話文学研究者としての宮原という立ち位置を割り出していく。この宮原の立ち位置を支えたものこそ「生きた支那」を知るという目的であり、そこから彼の「支那」理解も導かれていた。}, pages = {61--103}, title = {宮原民平と「通俗道敎」 ―白話文学研究者が語る道教―}, volume = {6}, year = {2023}, yomi = {ヒラサキ, シンスケ} }